むらさきが好きだった人
 むらさきが好きだった人。彼女はけれど死ぬとき薄紅色のパジャマを着ていた。
 暮れてすぐ、見舞いをしようと高尾の駅でひとりきり、私は左側に白く大きな四角い影を感じながら佇んでいた。まどろっこしい晩夏の太陽のような心持ちで腹から下が重だるく、どこに行けば良いのかわからないのだとばかり思おうとしながら。けれども私は、ここが東京からの終着駅であると知っていた。
 私は打ちのめされる代わりにわずかな憤りを感じ、それが真っ白な迷いではなく、色のない迷いによってであることを自覚していたし、迷いの指針となるところに彼女の姿がないことも知っていた。
 結局この日、私を駅の階段を降りようとすらしなかった。
 土の中にある、生きることへの喝采と死ぬことへの嫌悪、そして窓から見える、生きることへの憎しみと死ぬことの慰み、それらはずっと同じところにあり、同じところにあったばかりに、ごろりとひとつの塊として家の中に転がっていた。
 私が高校生の頃、私はよく母に後ろ姿が似ていると言われたものだ。
 けれども私はこの時すでに26歳になっていて、母よりもたくさん食べ、母よりもよく眠っていた。
 かつて、まだ地球に海ばかりがひろがっていた頃、「私」などという物質を信じる人もいなく、生命、ただそのことばかりを保つことに一生を捧げていれば良かった頃、私はそこに戻りたいとばかり思うのだった。生温い水の中、薄暗く、自分が誰かを殺せるのだとすら知らないままに、しらじらとした真っ白な手が、何もつかめなかった頃に戻ってしまいたいと願った。
 その日、高尾の山々は青かった。遠く果てなくただ青く、幾重にもさまざまな青が重なっては透きとおり、じんじんと音のない命を持って私の目の前で存在をこだまさせていた。
 私はいつまでもこの刹那の中にいたいと願ったが、やがて青は黒に飲み込まれ、曲線は空の向こうに消えていった。当然のように、日が暮れて。
 ふいに、夜と冷たい水の匂いがして、あたりはもう人間の世界ではなく、現代的な私は夜更けというものを大きく意識しようとする。

 私は、東京行きの電車に飛び乗った。
 チリチリとした蛍光灯の光が目に染みて、一瞬、まぶしさで何も見えなくなった。
 窓からうっすら捉えた四角い白は、今はもう群青に染まっていたが、私は彼女がどんな横顔で目を閉じているかすら知らないままだ。そしてまた彼女自身も知らないままだった。
 けれども私はこの時、彼女がむらさきのパジャマを着られずに死ぬだろうと知った。
 
 
 
15時半の長風呂
 人生の中でつかの間、このまま明けないのではないかと思うほどぼんやりとした感覚に支配されることがある。骨の抜けたクジラみたいな無様で肥大化した感性の重みだけがどうしてかつきまとい、毎日毎日うとましくなるほどに目の奥がだるい。悩みを抱えている時の気だるに似ているけれど、生活でも仕事でも、別段なにか問題が生じているわけではない。怒りでも悲しみでもなく、鬱のようにこじれた暗さもない。
 何かが起こってこうなったわけではないから解決のしようもなく、私はまだ薄暗い明け方のベッドで途方に暮れる。朝になったとて、一日なにもやれる気がしないからだ。
 学生の時は試験や、仕事をするようになってからは締め切りや、そして掃除や料理や生活のあれやこれやを、ちっともこなせなくなったというのに、やきもきする気持ちすら起こってはくれない。
 そういえば大人になると、怒りも喜びも悲しみも、名前のつく感情はすべて、人間関係などの外部からの影響によってわき起こっていたのだと思い至る。例えば、誰かが言った嫌味に傷つき、悲しみとともに怒りが生じるとか、逆に誰かの無防備な姿を見たことによって、親しみとともに優しさを感じたとか。
 だとしたら、なんの原因もなく言葉にすらならないこの感情は、誰とも共有できない私だけのものなのかもしれない。だって、誰にも語りようもないもの。そう考えると今度は、思う存分この状態に浸りたくなってくる。
 この感情に支配されている時、私は決まって長風呂に入る。昼間から、思う存分に。
 だらだら過ごした午前中、12時か13時頃は、まだ今日という日にせめて掃除でもできやしないかと希望を抱いている。けれど結局なにもできず終いで、観念した時間が大体15時半である。
 別に体を洗いたいわけでも、はたまた温めたいわけでもない。もし目的があるとすれば、心に感じたぼんやりさを体にも味あわせてやりたいと、どこかで思っているような気はする。自分という世界を統一させるための儀式のようなもので、自分一人を観客にした表現とも言えるかもしれない。
 昼間に窓のない浴室で、指の皮膚がしわしわにふやけてしまうまでぬるい湯に浸かっていると、ある瞬間から自分の体の境界線のようなものがよくわからなくなってくる。そして世界とはここだけのような気もしてくる。湯は透明で、やわらかい。微かに水と、自分の髪の匂いがする。私を傷つけるものなどなにもない。もしフロイト的精神分析を試みれば、この行動は羊水に戻りたい幼稚な退行意識が生み出す産物だ、なんていうのかもしれない。そこで私はふと気づく。私は、そうしたものにうんざりしていたのだった。
 前に進むためにという大義名分と一緒に課される、問題解決とか課題だとか。
 言葉にした途端にすべてのものは明るみに出され、分析され、誰かがそこから負の感情を生み出せば、問題だというレッテルを貼られて仕組みは解体され別のものに置き換えられる。
 人工的に統治されすぎた心を抱えて、私は生きていけない。思わず湯に頭までずぶりと浸かって、身を隠したくなってしまう。
 深い森のように、自分自身ですらよくわからない感情の暗い部分を、持っているくらいが丁度良いの
​​​​​​​ではないか。
 
 
 
世界がねむっている頃に
 午前4時。外はくらい。くらいのだけど、ほんのり青い。はじまりともおわりともつかない青い光のなかにいると、自分の輪郭がぼやけて生きているのだか死んでいるのだかわからないように気分になる。大人になってから、この無垢な時間の虜になった。
 中学生の頃から社会にでるまで、ひどいくらいの夜型だった。夜中、一晩かけて本を1冊読み切ったりひたすら洋楽を紹介するテレビ番組を観たりして過ごし、新学期とか学年があがる4月とかになると「よし!」と気合いを入れて規則正しい生活を心がけるのだが、それも数ヶ月で崩壊していくということを繰り返した。土日は昼間まで寝て、だるい体を起こして自分が半日も無駄にしたことを知る。そして急に芽生えた罪悪感にせき立てられるように、夕方になって急に出掛け、早く来た夜にまだ来なくて良いと無謀にも憤ったりしていた。
 規則正しい生活が良い、と世の中では言われているけれど、そんなの軍隊みたいでいけ好かない。私も多くの若者と同じように、組織とか大衆とか会社みたいなものに個人を一般化してくる恐怖を感じ、意味もなく反抗的な気持ちを抱いているひとりだった。幼いときは「とりあえず」でみんなと一緒にやっていたことを、急に壊してみたくなる。というより、自分の体で確かめてみたかったのだと思う。本当にそれ、しないといけないんですか?って。いつの間にか親や先生に言われるがまましていたことを抜け出して、今一度フラットな地点から自分というものを作り出してみたかった。
 そんな私だけれど、26歳くらいの時には朝の4時に起きることが習慣化しつつあった。理由は、何度か自分の感受性に溺れそうになったから。これは早起きを習慣にしてみてようやくわかったのだけれど、どんなに感情がとめどなく溢れ出し夜の嵐のように気持ちが大荒れに荒れても、規則正しい生活を送っていると体がそれを制御してくれる。というか、私のロマンチシズムなど無視して、体は体で淡々といつも通りの行動をとろうとつとめる。それはもうオートマティックに、容赦もなく。これには驚いた。私は26歳の時に母をなくしたが、骨の髄まで侵入して来ようとするかなしみから私を守ったのは、ただひたすら毎日、朝早く起きることだったように思う。
 なるほど、ヘミングウェイにディケンズ、カントに私が好きなジャコメッティまで、感性を使って仕事をしてきた人たちがどうして朝早く起き、規則正しい生活を送っていたのか、これでわかった気がした。これは、美徳とか優等生的な模範行動ではなく、生き残るための戦略なのだ。体が感情に負けたら生き抜くことができないことを、きっとみんなどこかの地点で気づいたのだろうと思う。まぁヘミングウェイは、結局自殺という形で自らの体を服従させたわけだけれど、それはそれとして。
 長い人生の途中、ふと気づいたら暗く深い穴の底に落ちていた、なんてことはままあって、心が揺らぐのであればひたすら揺らぎに身を投じる時間も回復への過程として大切にした方が良いとは思う。けれどその感傷の日々が快楽にすり変わってしまう瞬間がある。もの憂さがつきまとうベッドは確かに癖になるけれど、当たり前のごとくカレンダーは月日を刻みつづける。そんな時に私はずっと「元気を出さなくては」と心をどうにかしようしていたのだけれど、力を失い悲劇に魅せられている心を頼りにしてもダメなのだと、大人になってから気がついた。心なんていう移ろう速度の早いものを信用してはいけない。頼りになるのは、体なのだ。
 朝早く起きたら希望が湧いてくる、なんてことはない。そんな赤毛のアンみたいな底抜けの前向きさを私は持ち合わせていない。朝には、ただ朝があるだけである。
 けれどもし希望があるとすれば、朝決まった時間に起きつづけること、規則正しい生活をつづけること。それだけが、私にとって健やかに生きぬくための希望である。
複雑で愛おしい世界
 小さい頃、「わかった!」と思った瞬間よりも「わからない」と感じた瞬間の方がうれしかった記憶がある。その「わからない」とは、混乱を誘発して足元を不安にさせるような絶望の「わからない」ではなく、もっともっと自分はこの世界で知ることがあるのだという希望の「わからない」だった。この作者のことを私はまだまだ知らない。この技術のことを私はまだまだ知らない。そう思えばそれだけで人生に課題ができるし、生きる意味を感じられる気がした。元来から私は、文学とか哲学とかしつこいくらいに探求できるものが好きだった。だから大人になった今、たくさんの人に出会ったりたくさんの情報が入ってくるという物事との広く浅い関係性が、時に苦しさにつながる時もある。
 2011年の地デジ化を機にテレビを買い替えず、見ない選択をしたのはそのためだったかもしれない。普段私はラジオも聞かないし、ニュースもほとんど見ない。スマップが解散したことは電車の中吊り広告で知ったし(最初は週刊誌の嘘だと思っていた)、毎日の天気もよくわからないまま過ごしている。今のところそれで困ったことはない。
 最近都内の学校で絵の授業を受けている。先生から聞いたところによると「絵の世界では、昔はとにかく描写力とか画力なんてものを競いあうのが主流だったけど、今はそんなの長年続けられれば誰でも身につけられるものだから、もっと作家性みたいなものを見るようという流れになってる」とのことだった。つまりは絵の技術よりも、表現したいものが何か、アイディアがいいかを問われるということなのだろうと思う。そんな作家性を育てる授業の一環で、先生が私の絵に対し「大人っぽさを武器にした方が良いと思うよ」というフィードバックをくれた。はじめは大人っぽいが具体的に何を指すのかさっぱりわからなかった。その後でさらに先生と話していてようやく朧げながら言いたいことが見えてきたのだが、きっかけは、私が描いた朝の絵だった。
 部屋の中にテーブルと椅子と朝食があるだけの絵で「どうしてこの絵を描こうと思ったのか」と問われた時に思わず「朝って1日のスタートだから希望とか明るい意味が強いと思うのだけど、同時に鬱っぽさというかある種の絶望感もあると思っていて。何気ない日常の中にそうした感情のダイナミズムみたいなものが実は隠れているものだと思う。それを表現したかった」と言った。もちろんその場で思いついて適当なことを言っただけなのだけど、よくよく考えてこじらせた思考よりも、適当に言ったことの中にこそ人の本質って出るものだとも思う。
 それに対し先生は「それだよ」と言った。そしてしばらく話してみてわかったのは、「相反するものが同じ世界観の中で共存する、複雑性」を描いた方が良いということだったらしい。それを「大人っぽさ」と表現したようだった。
これでも社会人としてはずっとPRの仕事をしてきたので、広告のこともちょっとは知っている。ポップなものは強いし、よく売れる。過剰なものは、インパクトを生む。わかりやすいものは、多くの人に瞬時に好かれる。
でも私は、そうしたものを好きになれそうもない。それもずっと思ってきたことだった。
「三つ子の魂百まで」とは良く言ったもので、やはり人の性根は変わらないらしい。私がつい愛してしまうものは、そう簡単には理解できないものなのだ。繊細で複雑で、それゆえに姿形がちゃんと見えていないときにはひどいくらいに弱くて、時に人から面倒くさがられる。そんな不毛なものばかりを好きになってしまう。
私は、わかりづらくて複雑なものを、ずっとああでもないこうでもないとこねくり回しているのが時間が、一番好きだ。
そして「あぁ、まだわからない」と言いつづけて死にたい。
嘘ばかりついていた自分へ
たかだか31年しか生きていないけれど、もし後悔があるとするならば「自分に嘘をついてきたこと」だと思う。
私が自分に嘘をつくようになったきっかけは、一度感情を爆発させるとなかなかおさまらない母の怒りをやり過ごすためだった。私が逆らわず本音を隠せば、とりあえずその場は事なきを得られる。母を怒らせている内容なんてどうでもよくて、弾に当たらないように身を潜めてじっとするように、ただ時間が過ぎるのを待った。
けれどだんだん、私は母を見下すようになった。まるで大きな声で騒ぐ子どもをこちらがあやしているような感覚に陥って、いつでも冷静でいられる自分の方がよっぽど大人なのだという気がした。どれだけ幼かろうが自分の考えがあるし、プライドだってある。それを守るために私は、内心は母の存在を軽んじて黙るという方法でどうにかしていたのだった。
私のこの癖は、自分の将来を決めないといけない時に徹底的に私の邪魔をした。
17歳だった。
先生に進路をどうするのかと問われた。
私が書いた小説や文章を知っていた先生は「そっちの道に進まないともったいない」と言ってくれた。私の絵を見ていた美術の先生も「美大とか考えてみたらどうだ」と言ってくれた。おそらく、私も心の内では創作の道に行った方が良いと思っていたと思う。けれど私から出てくる態度はどれもこれも「そんなことしたってお金を稼げない」とか「趣味でよくないですか?」とか、本心を隠すものばかりだった。
本当は書きたいし描きたいし、自分の中にあるものを表現したかった。これはもう理屈ではなくて、体が勝手に動いてやってしまうことなのだ。けれど当時の私は、それを徹底的に封じないと気がすまなかった。だって表現活動をしたら自分自身を隠せなくなってしまう。そうしたら、私が言葉として発していることと整合性が取れなくなる。私が思う自分像が壊れてしまう気がした。こわかった。とにかくこわかった。もしパニックにでもなったら、あの母と同じになってしまうような気もした。そんなプライドに、なんの意味もなかったのに。
そして、かけなくなった。9歳の時から文章と絵をかくことが楽しくてしょうがなかったのに、どちらもぱったり出来なくなった。その当時の私はこれをスランプだと思っていたけれど、今思い返せば、ただ本心から逃げたくて、そしてその通りに体が動いたのだと思う。私は、嘘をつくのに慣れきっていたから。
その後の20代、私はずっと疲れきっていた。心にはいつも葛藤があった。それもそのはずである。本当にしたいことを隠していたのだから。当たり前だけれど、何にも本気になれなかった。
家族にも友だちにも恋人にも学校の課題にもバイトにも食べることにも、本気になれなかった。私の感覚の中では表面的なものしか捉えることができなくなっていた。世界のあらゆるものは代替え可能なものであったし、本当に大切なものなど何もなかった。何も感じずに「好き」と言えたし、何も感じずに約束もやぶれた。普段しなくても良い我慢をしているから、無気力なのにお金や恋愛の衝動的な行動を抑えることが出来なかった。案の定貯金は底をつくし彼氏とはトラブルになる。そしてそんな散々な結果になっても、それを申し訳ないと思いつつ、すでに解決する方法もわからなくなっていた。
その究極が、婚約破棄だったように思う。
大学を卒業後ずっと付き合っていた彼で、7年近く一緒にいた人だった。その間に一度でも、私が彼を愛したことがあっただろうか。
彼に問題があったわけではなく、本音で生きていない人間に、他人の人生を生きている人間に、誰かを愛することなんてできるはずもなかったのだ。最初の3年はよかった。恋をしていればどうにかなったから。ドーパミンやらアドレナリンやらが作り出す衝動に任せていればそれでよかった。けれどその先で、何にも向き合えない私は彼との関係にも本気にはなれないのだと思い知らされた。私は彼との関係で、いつでも逃げ腰だった。距離を縮めてこようとする彼を、巧妙に避けていた。私と違って自分の仕事に邁進し続ける彼とは心が通わない気がした。そのくせ理解してくれないことに対して憤っていた。前進しない関係が健全さを保てるはずもなく、不毛な気持ちばかりがつのった。
嘘つきな私は、彼のプロポーズに「いいよ」と言った。
けれどいよいよ引き返せなそうだという時になって、ようやく本音がでた。いや、本音かどうかすらもわからない。結婚をしたくなかった、というより、自分が何をしたいのかもわからなくなっている人間に、誰かと生活を作っていく覚悟があるはずもなかったのだ。
「できない」と告げて彼の前で泣いた。自分がどこにいて何をしているのかわからなくなって、頭の中が真っ白になった。
その当時の私は愚かにも、彼が私の意向を無視するからこんな混乱に陥るのだと思っていた。それを隠してめちゃくちゃにしていたのは、私本人だったのに。
たかだか嘘である。けれど、自分に嘘をついてしまうと、ここまですべてが壊れてしまう。
何よりも悲しいのは、このままだと少しも心の芯の部分は成長できないということだ。
大人だから処世術はうまくなるし、誰とでもなんとなくうまくやれるようになる。けれども、本当に密にコミュニケーションを取らなくてはならないパートナーや、自分の持っている時間の大半を捧げないといけない仕事となると、その未熟さがさらけ出されてしまう。さらけだされてしまった時に、嘘をつくのに慣れていると自分に課題があるのではなく、相手や仕事次第だとまた欺瞞を作り出し、どんどん対象を変えていくことで問題解決をしようとする。
けれどもそれって、本当に虚しい。心が壊れてしまうほど、心底虚しい。結局最後は、同じことの繰り返しでおわるのだ。
自分から逃げている時は、まだ出会っていないだけで運命の人や天職がどこかにあると思っていた。でも本当は、覚悟を決めさえすればすぐにでも自分の内側から溢れ出してくるものなのだ。
散々痛い目をみて、ようやく本音と向き合う覚悟を持とうと決意したのが、この一年だった。婚約破棄になるまで逃げつづけた私は、本当に大バカやろうだと思う。大バカやろうだけれど、これが私の現地点なのだから仕方ない。
そしてまた文章や絵をかくようになって、目の当たりにしたのはなんの実力もない自分自身でしかなかったけれど、正直、良いことしかなかったと思っている。
離人症のような感覚しかなかった人生に、生きているという実感が戻ってきたこと。
衝動買いもしなくなったし、誰かに認めて欲しいと思うこともなくなったこと。
他人の人生が良い意味で気にならなくなったこと。
本音で生きることは覚悟のいることだけれど、だからこそ自分の人生を軽んじた余計な行動を、少しもしたくなくなったこと。
日常の小さなことで、心のそこから幸せだと思えるようになったこと。
周囲の人に恵まれているという実感が増えたこと。
仮面をかぶって生きてきた自分の体裁やプライドを保つより、周りに「あいつ変わったね」と言われても、正直でいる方が良い。
仮面を脱いだ姿が不器用でも幼くても惨めでも甘ったれていても情けなくても、それは自分自身がそう思うだけで、周りは絶対にそんなこと思わない。
少なくとも私は、本音で生きる姿を、美しいなと思う。
心底、なんて勇気のある人なんだろうと、そう思う。
心の空白を紛らわそうと友だちとはしゃいだり消費に走っている人を見ると、私はとても身につまされる。人はそれを「甘え」とかいうかもしれないけれど、本人はとてもつらい想いを抱えていることを知っているから。心の底は絶望でいっぱいなのだ。
だから、本音で生きて欲しいと思う。そして生きたいと思う。
大丈夫、その後は、絶対良いことしか起こらないから。
サリンジャーの声
 サリンジャーの処女作である「The young folks」の冒頭では、ルシル・ヘンダソンという女の子がパーティー会場を見渡す場面が描写されている。そしてルシルがエドナという女の子にジェイムソンという男の子を紹介し、そこからはこの二人のとりとめもない会話が物語のほとんどを占める。
 会話は刹那的で意味がなく、ジェイムソンはエドナ以外の女の子を横目で物色しつつ適当に相槌をうち、エドナはエドナで少しばかり自己陶酔的だと思われても仕方がない発言を繰り返す。それは洒落ていて、クールで、でも何か言っているようで何も言っていない、ふわふわの綿菓子みたいなセリフの羅列だ。ジェイムソンは他の女の子とも話したいからさっさとエドナの元を去りたいけれど、彼女は巧妙に話をはぐらかしてそれを許さない。それがなぜなのかといえば、特段ジェイムソンを気に入っているからではないし、彼と会話をしたいからでもない。彼が隙だらけで丁度良い存在だからだ。
 彼女が求めているのは自分にとって都合の良い関係であり、構図だった。特に男の子を喜ばせるテクニックや容姿を持っていなくても、観客さえいれば今の自分が肯定される。自分ではなく世界が変われば良いという身勝手な若者らしい願望を見せてくれるのが、このエドナという女の子なのだ。
 お互いにお互いの存在を理由は違えどどうでも良い思っている二人が、それでも無生産的に一緒にいる束の間の時間が、「The young folks」である。

 戦後である1950年代のアメリカは,、高度経済成長のため世帯の所得も上がり、その分学業に向ける費用ができ学生が増えた。彼らは子どもでもなく大人でもなく「若者」と呼ばれ、彼が描いたのは微妙な立場に置かれて春の空気みたいにどこか地に足ついていないそんないわゆる「若者たち」である。
 子どもなんてものがなかった時代から、初等教育のはじまりとともに子どもと大人に二分された近代へ。そしてさらにそこに登場した、子どもと大人の間に横たわる「若者」たち。処女作であるこの作品では画家がスケッチでもするかのごとく若者の姿を描写しているにすぎないけれど、「ライ麦畑でつかまえて」では若者になってしまった世代だからこその苦しみと葛藤が描かれている。そう見ると、ライ麦畑は確かにこの表現の延長線上でこそ出来上がったものなのだろう。
 彼の文章で特徴的なのが、物事が理路整然と対象化されたり分析されたりしないところにあると思う。主人公たちはいつでも物事の図中にいて、決して客観的に論じられたりしない。彼の作品はほとんど現在で進んでいくし、ただそれだけであるがゆえによくわからないといった印象で読まざると得ない。物事は混乱しているし、話は順序だてて進んでいかないし、主人公の言っていることは前後で変わりもする。全ては衝動的であり、それがいわゆるテキストというよりは、とにかく「声」という印象を私に与える。熟考された文章ではなく、想いをすぐさま表に出す、声を記述していった。
 考えではなく想いであり、文章ではなく声。
 それが、私をサリンジャーを読んでいて感じることだ。
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