キャベツの悲
 20代の一時期、ひたすらキャベツを食べていた。調理法はすごく簡単で、レンジでチンしたキャベツにオリーブオイルと塩と胡椒をふっただけのもの。1玉買うと一人で一度に食べられる分量なんて8分の1がせいぜいなので、嫌が応にでも食べ続けなくてはならなくなる。けれど嫌になるどころかむしろ意欲的な姿勢でキャベツに取り組んでいた。
 身近な野菜ではあるが、キャベツがこんなにも生活の主役に躍り出たことがあっただろうか。キャベツというものは、野菜の中でもいまいちパッとしない気がする。いい奴なんだけど名前が全然思い出せない高校生のときの同級生みたいな存在感。「悪い奴ではないよね」くらいの可もなく不可もない立ち位置にいてくれないと、なんだか落ち着かない。
 そんなキャベツにとっての悲劇が、キャベツを主役にした料理「ロールキャベツ」である。
 私が幼い頃時たま母がロールキャベツを作ってくれたけれど、スープとキャベツの中のお肉がうれしかった。だから食卓に出されてまずすることは、キャベツを剥がすこと。出されたものを素直に食べるなんてことができない現代っ子だったので、わざわざ巻かれているキャベツを、わざわざ剥がして食べた。母も私もキャベツも幸せになれない。思い出すだけで悲劇的な出来事である。ミートボールスープの具にちょっとキャベツが入ってくらいだったら私はおいしく食べられたのにと、無念でならない。
 キャベツがどうしてこんなことをされる運命になってしまったのか、私はそれを、キャベツのあのピントがずれたような淡い色のせいと、あと葉野菜であることが原因ではないかと睨んでいる。
 もしキャベツがもっとビビットでおしゃれな色をしていたらどうだろうか。例えばラディッシュとかルバーブとか。あと緑は緑でもアボカドのようにちょっとくすんだにくいグリーンか、ほうれん草のように鮮やかなグリーンだったら。安価な上に生で食べられる彩り用のおしゃれな野菜としてもっと重宝されたのではないか。今のキャベツの色では、どうしたってサニーレタスには勝てない。だってサニーレタスはフリルがある上に、茶色とも紫ともつかない洒落た色をのっけているのだから。そして大根やかぼちゃのようにカタマリとして食べられないところも、キャベツを脇役に追いやって原因な気がしている。煮たとしても、根菜である彼らの存在感に敵うはずがない。生でも加工しても、なんだか中途半端な存在になってしまうキャベツ。
 そんな私がキャベツに開眼する日が訪れる。それが、アンチョビキャベツとの出会いであった。
 大学生の時にイタリアンレストランでアルバイトをしていたのだが、メニューの中にアンチョビキャベツがあった。ガーリックとアンチョビと一緒にオリーブオイルで炒められたキャベツ。パンチの効いた具材と合わさることによってようやくキャベツのやわらなかな甘さに輝きを感じた瞬間である。
 それから一人暮らしをするようになり、おそらく安く手に入るからとキャベツをよく買うようになった。そしてひたすらオリーブオイルと塩でキャベツを食べ続ける日々である。アンチョビを入れても良かったが、常食するとなるといまいちアクが強すぎる。当時はお米よりもキャベツを食べていた気がする。それくらい気に入っていた。私の中でキャベツが一気に主役に押しあがった日々である。けれどそんな日々も長くは続かなかった。私が同棲をはじめてしまったからだ。一人であればひたすらキャベツを食べ続けても良かったのだが、さすがに彼まで巻き込んで毎度毎度漬物のごとくキャベツのオリーブオイル掛けを食卓に出すわけにもいかない気がしていた。私一人の好みとして完結させられている間は良かったが、二人と言えど社会性を保とうとすると途端にまたキャベツの存在は色褪せていった。
 それからもう、キャベツが主役になる日は私の人生で現れていない。
 こうしてまた、一度主役にあがったばかりに今度は栄光を失い衰退する一発屋みたいな存在として、私の中でキャベツの悲劇性が増してゆくのである。
アップルパイを受け入れる
 パン屋ではショソン・オ・ポムを買うことがすごく多い。というよりも、ショソン・オ・ポムを買いにパン屋に行くことがある。私は専門家ではないのでアップルパイとの違いは説明できないけれど、たぶんほぼ一緒なのではないだろうか。半円形のパイ生地にりんごのコンポートが入ったフランスの菓子パンのことである。ちなみにフランス語で書くと「Chausson aux pommes」なのだけれど、直訳するとりんごのスリッパという意味だそうで、スリッパの足を入れるところに形が似ているからこの名前なのだとか。
 アップルパイにしろ ショソン・オ・ポムにしろ、つまるところパイ生地とりんごの組み合わせが好きで、ショソン・オ・ポムのなにが良いって、カットされたアップルパイよりもパイ生地が多いのが良い。これらを食べる時、りんごを食べたいという感覚はあまりなく、生地のバターの風味とりんごの甘み酸味、そして生地のソフトな部分とサクサクした部分が絶妙な具合でベストマッチした部分が大好き。だから底のちょっとりんごの果汁で湿った部分と、端っこのりんごに接していた生地の部分がおいしい。上に乗っている生地は小麦粉の味が勝ってしまっていてあまり魅力を感じない。ショソン・オ・ポムではなくアップルパイの場合は、パイ生地のヘリの部分がおいしい。ちなみにアップルパイと違いショソン・オ・ポムは、360度、この生地のちょっと湿った部分が楽しめてしまう優れものである。だから私はケーキ屋ではなく、パン屋に行くのだ。
 これはタルトでも同じで、タルトも果汁とクリームが接していたヘリの部分が好きなのである。以前友人とタルトを食べていた時、あろうことか友人がその部分を残していた。衝撃映像だったと言っても過言ではない。私はなんだったらその部分を食べるためにタルトを食べているというのに。「え、いらないの?」と聞くと、「お腹がいっぱいになってしまった」とのこと。これほどまでに自分の目がキラキラと輝いているだろうという実感が芽生えたことなんてない。人の食べ残しに対して。きっと生まれてはじめて大きなテディベアを見た子どものように純真無垢な瞳をしていたに違いない。何度も言うけれど人の食べ残しに対して。結果よろこんでもらい受けることにした。今度からパイやタルトは彼女と一緒に食べようと心に決めたことは言うまでもない。
 さてこのショソン・オ・ポム 、はたまたアップルパイ。ずっと定期的に買ってはいたのだけど、自分の好物リストの中には入れたくなく、意識の外に追いやっていた。その理由は、父が大好物なのである。父の誕生日になると、毎年母がアップルパイを焼いていた記憶がある。りんごの上に1センチ幅で切ったパイを格子状に飾る、あのクラシックなアップルパイだ。間違ってもシナモンなんて入っていない家庭的なやつ。
 今でこそ別に一緒で良いではないかと思えるのだが、妙な自意識が芽生えて「父となんてかぶりたくない!」とずっと意地を張っていた。「あんな奴とかぶるなんて!」ぐらいの、何も悪いことをしていない父を貶めても罪悪感を感じないくらいの自意識である。一度意地を張るとどこで引き返して良いかわからなくなり、結果張りっぱなしだったのだが、アップルパイを食べ過ぎている自覚があるのでもうそろそろやめようと思う。
 今度から人に好物を聞かれたら、牡蠣とドライイチジクと春巻きとお雑煮と、あとアップルパイだと言おう。
 こうやって現実を受け入れ、きっと人は大人になるに違いない。
 
海とアメリカンドッグ

 アメリカンドッグを食べるたびに、私は海を思い出す。
 小学生の頃、毎年夏になると家族で海に行くのが決まりごとだった。海は決まって神奈川県の三浦海岸というところで、砂浜で遊ぶことはせず、いつも磯遊びやシュノーケリングをして遊んでいた。だから私の記憶の中の海は、砂浜の向こうに眩しい海面がひろがる開放感あふれる風景ではなく、ゴジラの背中のようなゴツゴツとした岩が並び、その下にカニや小魚が生息しているというなんとも野生的な姿である。
 母に買ってもらった私の使い捨ての水中カメラを、貸したが最後全然返してくれなかった父と(いつもそうなのだ)、泳げないからと頑なに水には入らずタオルを羽織って岸にいた母。そして石をひっくり返しては小さなカニを採り続けていた兄と、シュノーケリングに行ったきり数時間は戻らない私と。今思い返すと、なんて我が道を行く家族なのだろう。こんな育ち方をしたせいで協調性には欠けるが、おかげで自分自身に集中する時間が長かったから感覚的なことだけはこうして書けるほどに覚えている。
 両親にお金を出してもらっていたので、どこでアメリカンドッグを買っていたのかは全然覚えていない。けれどペラペラの発砲スチレンのトレーに載っていたことと、350円もしていたことだけは覚えている。おそらく、海の家か何かで買ってくれていたのだろう。
 アメリカンドッグは、海からあがった後のおやつだった。
 海を出た後の骨がとけたような気だるさと、シュノーケリングをしたために熱を持った背中のひりひりとした感覚。どれだけつかれていても夏の陽射しの眩しさと海にきたのだという高揚感で、目は苦しいくらいに冴え冴えとしていた。
 マスタードだけだと複雑な味がして嫌いだったが、ケチャップと一緒なら食べられた。丸々でんっとしたアザラシみたいな形に、鮮やかな赤や黄色がかかる様子はまるで絵の具で遊んでいるようで、見ていて楽しかった。歯ごたえのないソーセージと、良く噛むとほのかに甘くなってくるパンケーキみたいな味の生地。潮が残っている体はベタベタとして私を落ち着かない気持ちにさせたが、その時の胸の鼓動の不規則さもアメリカンドッグの味と区別がつかなくなるくらい一緒くたに覚えている。
 大人になってからも、たまにコンビニでアメリカンドッグを買っている。税抜きで100円だなんて、観光地値段との差に毎度少しばかり驚きながら。
 今でもアメリカンドッグは変わらずおいしいし、何より串がついている食べものは持っているだけで楽しい。お団子とか、イカ焼きとか。さらに串に残った生地のカリカリの部分が好きなのだ。
 おそらく幼い頃の思い出があるから、私はアメリカンドッグをアメリカンドッグ以上のものとして捉えているように思う。だって食べていると不思議と、潮の匂いがする気がする。
スーパーのたこ焼き

「スーパーたこ焼き」ではない。「スーパーのたこ焼き」である。みなさんは知っているだろうか。スーパーの惣菜売り場でたこ焼きが売られていることを。東京の郊外でも都心でも見かけたから、案外どこにでもあるのかもしれないと最近急に気がついた。
さて、この間近くのスーパーに行ったらエビチリやらサラダやらが並ぶ混沌とした惣菜売り場で一際地味な姿をして売られていた。なぜ急に目に入ってしまったのかわからない。スーパーのたこ焼きを目にするのなんて、思えば十数年以来ではあるまいか。ちょっと離れたところから見たらただの茶色の塊にしかすぎないのに、妙な魔力を持ってグググっと私の視線を捕らえて離さなかった。今しがた旬で油ののり切ったキラキラの鰤やら中トロなどのお刺身を物色した後である。こう言ってはなんだけど、見栄えの点だけでいえば良く手入れされたペルシャ猫とスラム街の野良犬くらいの高低差だ。それだってのに、たこ焼きの存在感は圧倒的だった。
スーパーのたこ焼きにはまっていたのは、私が高校生の時。当時私はスーパーのテナントであるアイスクリーム屋さんでアルバイトをしていた。朝から夕方までのシフトだと休憩中にランチを取る必要があり、一番カンタンに食事を手に入れられる方法はスーパーの惣菜を買うことだった。
もちろんだけれど、惣菜のたこ焼きは冷めている。
生地は、外はカリカリ中はふわとろが主流の現在のたこ焼き界に一石を投じるレベルのだらしないふにゃんふにゃんさである。
鰹節ももちろんのこと小さく、少ない。間違ってもマヨネーズなんていう気が利いたものはかかっていない。
薄く伸びたソースはおそらく「2はけまで」と、パートのおばちゃんが徹底したラインの規則にのっとって塗っている。
タコも、チューインガムを6等分したくらい小さい。
たぶん、最初は300円以下でたこ焼きが食べられるというお得感で買っていたのだと思う。それが食べてみたら、案外おいしいなぁと思うようになり、いつしか私のランチの定番になっていた。
たこ焼きというものはおやつとして食べようと思うと案外高い。だって500円だなんて、あの女子高生が大好きなチョコバナナクレープよりも高い。しかも当時は500円あればマックでお昼ご飯が食べられてしまう時代だった。それに量も、おやつであれば4つもあれば十分だ。でもアツアツがおいしいと言われているたこ焼きを後にとっておこうなんて思えないから、多いなと感じたとしても食べきることになる。もしくは誰かと割り勘して購入し分け合うことになるのだが、不思議と人と分け合うと8個全部食べたかったなぁと思う自分がいた。とてももどかしい。いつになっても満たされない。
つまり、値段も量もトゥーマッチなたこ焼きは、いつ買えばいいかわからない食べ物の代表だった。食べたい、でも今ではない気がする、そんな風に右往左往していると気づいたときには買う機会を失っている。
そんな時に出会ったのが、スーパーのたこ焼きである。値引きがされている時なんかは200円程度で買えてしまい、腹持ちも良い。この後もバイトが続くと思うとがっつり食べたくはないし、そんな時にちょうど良い駄菓子感覚でそこにいてくれた。
しかし今でも売られているということは、私以外にも買う人っているのだなぁと、案の定8個入りで250円近くまで値引きされているたこ焼きを見て妙な感慨がわいた。
すごく安っぽい味なんだけど、そこが好きだった。
まぁ言っても、たこ焼きなんてほぼ小麦粉の塊なわけで。つまるところソースの魔法にかかれば、ある程度なんでもおいしいのだ。
 時間を失くす

 ある日、時間を失くした。
 正確に言うなら「Iphone」を失くしたのだが、家に時計を置いていない私は常に Iphone で時間を確認していたので、時間を失くしたも同然だった。腕時計なら持っていたけれど手巻きのもので、ネジを巻いていなかったため見た時にはすでにシルバーのブレスレットと化していた。
 失くしたのは平日の夜のことで、友人と飲んだ帰り道、おそらく電車のシートに置き去りにしたのだ。このまま出てこなかったらなかなかの損害だけれど、東京といえど、日本だし、おそらく見つかるであろうと大して焦りはしなかった。
 そんなことよりも、問題は明日の朝どうやって時間を把握するかだった。
 勤務時間は午前9時から午後18時まで。社会的に行動するためには常に時間を把握していなくてはならない。当たり前のことすぎて、時間というものを他人と共有していたことすら忘れていた。
 いつも時計のアラームではなく太陽の光で自然と起きる私にとって、時計がなくとも起きることは可能だった。けれども丁度良く会社に行きたいとなったら事態は変わる。果たして時計なくして7時50分ぴったりに家を出ることが可能かどうか。
 思えば産まれたばかりの頃は、好きな時間に寝て起きていたのだ。
 一体いつ、私は時間を手に入れたのだろう。いくつの頃、時間という概念があることを知ったのだろう。
 そして私は
その頃と比べ、一体何を得、何を失ったのだろう。
 今が何時かもわからない夜中に、酔っ払った頭でそんなことを考えた。
 何時かわからないとびっくりするほど夜は広大に思えた。一体あと何時間待てば夜明けに出会えるのだろう。闇はブラックホールのように無限にどこまでも繋がっていそうな気がして、ふとした瞬間、身がすくむような冷たい感覚が体の内側に生まれた。それは未知への恐怖だった。ちっぽけな私のことなど簡単に握り潰せる何か巨きなものの中に自分が存在しているのだと急に実感させられた。
 いつだって東京の夜空は明るい。星なんて見えないから自然の変化など感じなくていい。お酒を飲めば意識の中限定で1日を拡張することだって可能だった。
 時間を失くして感じたのは、体と時空間が直で共鳴し合い、社会のジャッジメントが一切含まれない原始の感覚だった。
 感じるだけで正確に把握することができなということ。濃厚でただひたすらに続いていく時空の本来の姿がそこにあった。正確に把握しなくても、自然と目は覚めるしお腹も減る。けれども10時開店のスーパーに行きたいと思ったら難易度が増すし、約束の時間に友人と会おうと思ったら困難を極めるかもしれない。
 つまり私が失くしたのは生物の時間ではなく、人間の時間なのだ。
 それがないと生けていけないような気にすらなっている自分に、少しのさびしさのようなものを感じずにはいられなかった。
 起きてお腹を満たすだけでは、私は生きられなくなっているのだ。
 次の日目が覚めた瞬間、おそらく午前の6時くらいだろうと思った。駅に着いて電子掲示板を見たら、そこに書かれた時刻は6時10分頃とあった。
 把握できていたであろうものが、道具を失っただけで簡単に把握できないものになる。
 ぽっきりと無感動なほど綺麗に折られた都会人の奢りと全能感。​​​​​​​
 時間は失くしたけれど、自分というもののサイズは、把握できたような気がした朝だった。
 
 
 
 
Back to Top